エッセイ 『文明論之概略』 

エッセイ NO.14 『文明論之概略』 
福澤 諭吉 著

<印象に残った言葉>
 「古人は古にありて古の事を為したる者なり。我は今にありて今の事を為す者なり。」

 この言葉の後には以下のように続いている。
 「…何ぞ古に学びて今に施すことあらんとて、満身あたかも豁如として、天地の間に一物、以て我心の自由を妨るものなきに至るべし。」

 古き悪習に囚われない自由な福澤諭吉の気風漂う前向きな言葉だったのでこれを選択した。私自身は古い考え方に縛られ、身動きが取れなくなる時が時折ある。それは偏に思考していないから、つまりは今まで見聞してきたものを考えもせずに受け入れているからである。そうと解ってはいても、気付くと身動きが取れなくなり、冷静に考えると何かに囚われている自分がいる。そんな私にとってこれは常に頭の隅に置いておかなければならない言葉である。

<感想>
 文語体で書かれているため理解することが難しい箇所が幾つかあり処々わからない文があったものの、直後に容易な例示をしているため大意は読み取れたと思う。私でも大意を掴めるように工夫された構成こそが福澤諭吉の実力であり、また『文明論之概略』が良書として130年も生きながらえてきた所以ではないだろうか。

 まず全文を読み終えて初めに感じること、それは福澤諭吉の一貫した日本の独立―福澤諭吉が言う鎖国時代の偶然の独立とは異なる独立―に対する並々ならぬ気概である。終始私は理路整然かつ気持ちの入った文の連続に圧倒され続けてしまった。それと共に、1つ1つの事象に対する本質を突いた物言いにも脱帽であった。ここで数ある物言いの中から幾つかを挙げると、「原因を近因と遠因との二様に区別し…(中略)…故に原因を探るの要は近因より次第に遡て遠因に及ぼすに在り。其遡ること愈遠ければ原因の数は愈減少し、一因を以て数様の働を説く可し。」や「自由の気風は唯多事争論の間に在て存するものと知る可し。」などがそれである。これらは抽象化されているが故に、当時だけでなく現代でも重要な考え方として肝に銘じておくべきものばかりだ。また、「昔年の異端妄説は今世の通論なり、昨日の奇説は今日の常談なり。然ば則ち今日の異端妄説も亦必ず後年の通説常談なる可し。学者宜しく世論の喧しきを憚らず、異端妄説の譏を恐るゝことなく、勇を振て我思ふ所の説を吐く可し。」とあるが、明治初期にしてアダム・スミスやガリレオを引き合いに出し本質を見出してしまう福澤諭吉には驚嘆するばかりである。

 さて、この『文明論之概略』で福澤諭吉は「国の独立は目的なり。今の我が文明はこの目的に達するの術なり。」と書いているように、内外圧が入り混じる明治初期に日本の独立には西洋文明を学ぶことが必要であると説いている(ここで言う独立とは精神の独立であり、また文明とは人の知徳の進歩である)。ここで文明国の仲間入りを果たしたと言われる現代の日本を省みると、明治時代に福澤諭吉が言った文明化―知徳の進歩―は成し遂げられたと言えるのだろうか。私は否であると考えている。なぜなら、名ばかりの科学技術が進歩する一方で国民個々人の知徳―日本古来の知恵(インテレクト)と徳義(モラル)―が世代を経るごとに低下しているという実感があるからである。皮肉ではあるが、それが達成されていないからこそ130年も前に書かれた国の独立を目的とする『文明論之概略』が今も尚読者に福澤諭吉の志の大きさを感じさせるのだろうと思う。

 最後に。福澤諭吉著の作品を読んだのは『福翁自伝』に続き2作目であった。『福翁自伝』の時も感じたように、独立のためには文明化が必要であるという首尾貫徹した考え方に改めて感服せざるを得ない。またこの作品では論理的に独立の必要性を説く作品故に、『福翁自伝』の時には見られなかった「言いたい事を解り易く伝える」表現方法を使うなどの新しい発見も多々あった。読めば読むだけ味の出てくる作品はそう多くはない、長い付き合いになりそうな作品である。
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by jokerish2 | 2005-09-12 04:13 | エッセイ(課題)
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